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荒野の果てに
求道とは、どの世界を志しても必ず存在し、間口は広く誰にでも気軽で敷居は低い、フレンドリーな顔をしている。文筆の世界も、そうだ。ここで述べる創作論など、所詮は数多の中の一欠片に過ぎない。
でも、決して新たなチャレンジャーのやる気を阻害しようという意地の悪い戯言ではないことだけは最初に申し上げる。有望な才能の持ち主が、颯爽と真横を通り過ぎて消え去っていく経験は数知れず。それでも辞めようとは思わず、悪戯に歳月だけを重ねて、当方が書き続けているのは〈これしか自分にはないのだ〉という覚悟である。
道を求め流離い、悩み、立ち止まり、それでも
「もう引き返すことなんか出来ない」
という境地に達してしまうと生きているだけで求道のような勘違いをしている気がする。
みなさん、おぼえていますか?
この道へと、一歩踏み込んだとき、そこに待つのは
「こういうものを書いてみました。読んでください」
という安易な世界ではないことを。
自分の中では最高傑作のつもりで世間に発したのに、そのリアクションが予想外なまでに淡白だったことを。勿論、幸運にして一発目から波に乗れる才能の持ち主もいるが、みんながみんな、そういう事にはならないのです。
ここは、甘い理想とは程遠い修羅場。その最初の洗礼に、諦める人と諦めの悪い人に振り分けられる。大いなる、ふるい落としだ。作品を最初に編集者から審査されたとき、懇切な注文や指摘を受けたと思う。その苦言を自己否定されたと錯覚した方もいるだろう。そこで嫌になり、自己流の一匹狼へ傾倒する場合もある。
「趣味で創作をして、時々ネットで紹介するから、いいね♡をヨロシク」
という側に身を寄せて満足できる方は、もはや往くべき道は異なると考えてよい。この道は、果てなく修羅場、である。とまれ創作の厳しい世界の道は、実はここからがやっとスタートラインになるというのが、私見である。
求道とは〈道を求める〉と、読んで字のごとし。たまたまその道が文学であるだけのこと。無から命を生み出す作品を創り出す、産むというべきかも知れない。数多いる創作求道者のなかには似通う文章や創作のスタイルを持つ者は絶対にいる。重なる作風の人に出会ったときの焦り、それを意識することは無理もないだろう。そこで無為に足踏みすることなく、作風の引き出しを内面に備えていく。すなわち自己研鑽を怠らぬことこそ、横に並ぶ似た人を蹴落とし勝ちあがる原資となる。
これは、武道でもスポーツでも芸能でも、何にでも共通する険しいサバイバルだ。
登山で例えたい。山に登る前に備えるものは何か。地図や公共交通機関、食糧や水や行動食、防寒風雨に対する備え、道に迷わぬ知恵……。何かが欠けたら命にかかわるもの。
創作では、どうだろう。好きという情熱がなければ、過酷な試練に心が折れる。知識がなければ作品が薄くなる。匿名性がある読者は時として毒のある牙を剥いてくる。正面から立ち向かうもよし、受け流すもよし、自己のスタイルは十人十色、どれを選んでも正解はないし誤りも、殆どない。
でも、忘れてはならないことがある。
「人を羨み妬むヒマがあったら、自分を磨き続けること」
24時間机に向かう必要はない。映画や音楽、絵画を鑑賞する。本物に触れ、貪欲に体験するべきなのだ。そのことで得る経験値こそが、作品の表現と自信につながっていく。そう思うし、それが自身の創作土台である。
無論、正解はない。
正解のない求道は、荒野で行き倒れる自由との背中合わせ。ゆえに生き延びるための努力を怠らぬ。まさに、求道。今日も誰かが隣から追い抜いていく。創作の荒野を楽しめるのは、自分の心次第、かもしれない。
2000年「奇本太閤記」で第73回コスモス文学新人賞長編小説部門新人賞を受賞。以後、文筆へ。現在、「みよしのの記(南信州新聞)」「千人同心がゆく 北のまほろば(西多摩新聞※令和薫名義)」を連載中。また、2025年3月で完結を迎えた「真潮の河(房州日日新聞連載作品)」をはじめ複数単行本化の準備中。お楽しみに。
故遠山あき氏に縁深い文芸同人槇の会に所属。全国里見一族交流会理事、小山田信茂公顕彰会賛助会員をはじめ歴史研究会東京支部会員(H30年歴史大賞功労賞受賞)などに属す。
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