書いているうちに…
~1枚の絵から始まる物語~FPA Vol.3 投稿受付中!
書いているうちに…
息を吐くようにウソをつくように、当たり前な顔をして物を書いている。いつの間にかそんな輩になっていたことに、四半世紀繰り返すうちに、すっかりと慣れてしまった。ふた昔前には羨望していた、考えもつかなかった領域。経験値というものは……恐ろしい。でも、今となっては引き返すことも出来ず、そうしていることがいちばん自然なのだ。
小説を書くことと、エッセイを書くことには、大きな違いがある。小説の私見はオブラートに包まれたところがあるけど、私見が駄々洩れするのがエッセイである。油断したら私生活が滲み出る。狙っているならいいのだけど、ついつい、ホンネに何かが零れてくる。そう、赤裸々とは云うまいが、趣味や性癖を暴露しかねない危険な媒体と云ってよい。
平成の末ごろに、山梨県富士北麓をエリアとしたタウン誌で、月イチのエッセイを書かせていただいたことがある。このときのエッセイは紀行文であったり、地誌紹介だったりと、足で稼ぐことのできた楽しい仕事だった。廃刊にならなければ、ずっと書いていたかも知れない。
その頃には、気付いていなかった。小説では当然である起承転結のルールに縛られぬ、エッセイの自由な世界。翼を拡げてという表現を体感できた、その自由さゆえに、ついつい無意識で趣味や性癖が洩れてしまう恐ろしさを知ったときの愕然となる思いは、例えようもない。
「私も先生と同じプレモル派です」
などという感想を頂いたときに、ハッとなる。ついついご褒美ビールを暴露していることに。
近ごろはエッセイも、とんと書いていない。いまはSNSで、ビクビクしながら、コンプラに怯えつつガスを抜いている有り様。
世の先生方は、小説とエッセイのバランスが上手な塩梅で、いつも羨ましく思っている。人様のエッセイは、実に学ぶことが大きい。令和までほぼ書籍を出さずに過ごしてきた当方は、四半世紀も物を書くことを続けていながら、大きな実績を誇れずに流されていた。心の奥に隠している引き出しの数は増えたけど、まだまだ余裕がある。なので、いまは人様のエッセイからテクニックを学んでいる。
同人の合評で人様の小説作品を読むことはあるが、基本的に、手掛けるジャンルと不一致な小説作品を拝読することに努めている。
影響を受けることが怖いから、というのは……云い訳だろう。でも、そういうことは、実はすごく意識しながら注意しているのだ。同じ題材が重なるときは、特にそう。読むなら、校了してから、展開を比較する。勝ち負けではないけど、相手が秀逸な場合、その圧倒的な眩しさに項垂れる。小説って、難儀。
エッセイは、その人そのものだから、影響を受けても作風にブレはない。夢酔は、夢酔だ。他人にはなれないからエッセイの作風を変えることもない。
長い歳月、書くことを続けると……そんなことの繰り返しになる。しかし、人様の秀逸な造語や的確な表現、これは真似のできない、その人の個性でもあるのんだよなぁ……。真似できない部分は眩しい。決してあり得ないのに心のどこかでは、その個性に引き摺られるのでは、という恐怖が抜けない。効率よく量産していける諸先生方には太刀打ちできないけど、それでも書いているときの生みの苦しみ。それを突き抜けたあとの、至福。書いていることの幸せは、書いている者だけの特権。
読む人をどこで驚かせよう、笑わせよう、泣かせよう。
わくわくするよね、書いていることの高揚感。
この感情を知ってしまうと、悲しいかな、まだまだ筆は折れない。文壇三〇年目を迎えてしまう前に、もっと書いていこうじゃないか。
は、何か……おっしゃりましたか?
「私もプレモルで一人完成祝いします」
……ありがとうございます。
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